大地の音
――その人に会ったのは、秋も深いのに紅葉が色づかない年だった。
周りにいる大人たちがひそひそと話している。朱音はふとそのことに気づいて大人たちが目を向けている方をみた。すると山吹色の着物を着て笠を小脇に抱えた男が地面にうずくまっている。目立つ色の着物だ。あれは、腹を空かせて倒れたのだろうか。それにしても、なぜ周りの大人はあの男に声をかけてやらないのか。
朱音は男に近づいた。草履が地面にすれてじゃりじゃりと音がする。朱音がじっと目を凝らしてみると、男の背中がゆっくりと動いていることがわかった。
「ねえ、生きている?」
「ああ、生きているさ」
「お腹が空いているのなら、私のおうちにいらっしゃいな」
「いや、腹が減っている訳ではないんだ」
声が返ってきたことに朱音は安堵した。男はうずくまったままだ。
「お腹が空いていないのなら、何をしているの」
「大地の音を聞いているんだ」
「大地の音?」
不思議なことを言う男だ。朱音は首をかしげた。
「ねえ、その音は私にも聞こえる?」
「君ぐらいの歳の子ならば聞こえるかもしれないね。今、いくつだい?」
「七つ」
「ああ、なら聞こえる。寧ろ、今のうちに聞いておいで」
男が手招きし、自分の隣で地面に耳をすませるように言う。朱音は素直に従った。頭を横にして地面に手を付き、耳を近づける。
しかし、聞こえるのは周囲の大人がひそひそ言う声と歩く音だけだ。
「……聞こえない」
「おや、おかしいね。君、本当に七歳かい?」
「うん、ついこの前七つになったばっかりよ」
「ふむ……」
男は起き上がって持っていた笠を被り、手を顎にあててうなった。しばらくうんうん言っていたが、ふと顔をあげて不思議そうな顔をする朱音を見た。
「ときに御嬢さん、名前は何て言うんだい?」
「あかね。朱色の音って書くの」
「ああ、良い名だね。しかし、妙だな。その名前ならばなおさら聞こえないはずがないのだが」
「聞こえないって、大地の音のこと?」
「そう。大人になると聞こえなくなる人が多い。けれど、子どもの頃には誰もが聞こえていた音さ」
「私は子どもよ」
「そうだね。まあ、今年は秋が来るのが遅いからね。もう少ししたら聞こえてくるかもしれないよ」
「ふうん……」
「それより、朱音と言ったね。ここで一番大きな紅葉の木がどこにあるかわかるかい?」
「紅葉?」
朱音はしばらく考え込んで、答えた。
「紅葉なら池田の丘の上のが一番大きいと思う」
「そうか。池田の丘というと……」
「ここをまっすぐ行って三つ目の通りを左。そうすればわかるわ」
「ありがとう。助かったよ」
礼を言ってそのまま去っていこうとする男を朱音は慌てて引き留めた。
「ねえ、私は名前を教えたわ。あなたの名前も教えてくれなきゃ」
「私の名前?……そうだなあ、山吹、とでも呼んでくれればいいよ」
「何それ。嘘っぱちの名前ってこと?」
「いやいや、嘘ではないのだけどね。本当の名前は忘れてしまったんだ」
「変なの」
去っていく男の後ろ姿を見つめながら、朱音は男の名前を呟いた。
「……山吹」
いつの間にか周りにいた大人たちはいなくなっていて、夕焼け色に空が染まっている。
朱音はもう一度しゃがみこんで地面に耳をあててみた。
「何も聞こえないじゃない」
片頬を膨らませて、朱音は家路についた。
朱音が家に帰ると、義母が夕餉の支度をしている所だった。ひと月前に朱音の父親と再婚したこの義母を朱音はあまり好いてはいなかった。
朱音の母は朱音が幼いときに亡くなったと聞いている。朱音が物心を付く前だったからであろう。朱音は母親の顔をおぼろげにしか覚えていない。しかし、母親がとても優しく美しかったことや、自分のことを柔らかな声で呼んでくれたことは朱音の中にしっかりと残っていた。新しく母親ができるということは朱音にとって、自分の中にある母親の記憶が薄れていくことにつながっていた。義母は自分に優しくしてくれる。しかし、それに素直に甘えることができないのだ。朱音は悩んでいた。
「朱音ちゃん、おかえり」
「……ただいま」
「お夕飯、もう少しでできるからね」
朱音が帰ってきたことに気付いた義母が声をかけてくる。朱音はそれに小さく返事をするだけで、奥の部屋に入る。
そこにあるものもまた朱音を悩ませる一つの原因だった。
「……ただいま、弟」
大きな布団の真ん中ですやすやと寝ている赤ん坊。義母が連れてきた子で、今は朱音の弟である。名前はあるが、朱音にとって義母と同じくこの赤ん坊も母親との記憶を薄れさせるものであった。朱音は父親や義母にそれとなく名前を呼んでやるように言われるも、頑なにこの赤ん坊のことを弟と呼び続けていた。
「あんたのこと、嫌いではないのよ」
朱音は弟の脇に座り、その頭をゆっくりと撫でてやった。
そう、朱音は義母のことも弟のことも好いてはいない。しかし、嫌いではないのだ。そっけない態度をとる自分に怒らず接してくれる義母も、手を出すと意外に強い力で指を握ってくるこの弟も、嫌いではない。それでも、朱音の中にくすぶるもやもやとした感情は朱音が素直になることを許さない。
はあ、とため息をついて、朱音はその場に寝転んだ。最近、家にいるのが苦しいと思うようになってきていた。日がたっても一向に軟化しない朱音の態度にやきもきしてきた父親が、朱音の態度をたしなめるのだ。その度にそっぽを向く朱音と、困ったような顔をしながら父親をなだめる義母。朱音は自分が家にとってよそ者になったかのように感じていた。
そんなものだから、近頃の朱音は朝ご飯を食べたらすぐ外に出かけて、寺子屋に行くかそうでなければ一日中川原や林で遊んで時間をつぶした。そうして夕餉の時間ぎりぎりに家に帰るのだ。朱音はできるだけ家にいる時間を減らしたかった。
「明日はどこにいこう……」
毎日どこかで時間をつぶしているものの、最近はどこも飽きてきてしまった。大体、友達と遊ぶならまだしも、一人で辺りをぶらぶらするのだ。面白くもなんともない。皆、寺子屋が終われば家の手伝いが待っている。朱音に付き合って夕方まで遊んでくれる子はいない。
「そうだ」
朱音はその場で飛び起きた。
今日会った山吹の所に行けばいい。きっと今日教えた紅葉の所にいるはずだ。朱音は閉まっていた部屋の障子戸を開けた。庭にある紅葉の木が月光に照らされている。紅葉の所に行けば、きっと彼がいる。明日は寂しくないのだ。
次の日、朱音は昨日男に教えた紅葉の木の元に行った。空は晴れ渡り、正に秋晴れといった風である。
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