朱音が池田の丘に行くと、思った通り、木の下には山吹が昨日と全く同じ格好で立っていた。木の幹に手をあてて、何やらぶつぶつ言っている。

「あれ…ここは…が…を……して…は……が。……違う…か…」

朱音がいる場所からでは何を言っているのか全く分からない。しかし、山吹が難しそうな顔をしているのは遠目でも分かった。

 朱音は山吹の所に近づいた。

「おはよう、山吹」

「……ああ、君か」

「君じゃないわ、朱音よ」

「そうだったね。どうしたんだい?」

朱音が横から声をかけると、山吹が朱音の方を見た。山吹の眉間に皺が寄っているのを見て、朱音は眉をひそめた。

「どうしたの、はこっちが言いたいわ」

「というのは?」

「今度は何をしているの?」

「今度?……ああ、木の声を聞いているんだ」

 そう言うと、山吹や紅葉の幹を軽く叩いた。

「昨日は大地で今日は木?」

「そう。聞いてみるかい?」

「いいわ。どうせ聞こえないもの」

「……残念」

「あなたには聞こえるのよね、その、木の声」

「ああそうだが、どうしたんだい?」

「何て言っているの?」

 朱音がそう言うと、山吹は目を丸くした。その反応に朱音の方が驚く。

「なに、何か変なことを言った?」

「いや、信じるのだね、君は」

 山吹は顔を赤らめて恥ずかしげに頭をかいた。

「信じる?」

「大抵の人間はこういうことは信じないだろう、ほら、大地や木から声が聞こえる、とかね」

「私は昨日から一応信じているつもりだけれど」

「その瞬間は信じても、次の日には信じなくなっているものなんだ」

 一瞬山吹の目が細くなる。恐らく今まで山吹から大地の音について聞いた人たちは山吹の言うことを信じない人ばかりだったのだろう。朱音は山吹の着物の袖を引いて言った。

「私は信じてあげる。ねえ、それより木は何て言っているの?」

「……私は違う、だそうだ」

「……え?」

 山吹は紅葉の木を見上げた。

「この紅葉に、僕が探している木が君かどうか聞いたんだ。そうしたら、違うと言った」

「山吹、声が聞こえるだけじゃなくて、話せるのね」

「……信じるかい?」

「もちろんよ」

 にっこりとほほ笑む朱音に、山吹は安心したように息をついた。

「朱音、ここよりもっと大きな紅葉の木は無いのかな?」

「大きな?」

 山吹の言葉に朱音は首をかしげる。

「いいえ、ここの木が一番大きいはずよ。さすがに山の奥までは知らないけれど」

「いや、山の奥にはないんだ。人里の中になければいけないからね。おかしいな……、今年の秋は紅葉のはずなのだけれど……」

「紅葉は毎年あるわよ?」

「いや、そういうことではないんだ」

「……ならどういうこと?」

「うん、これは例え話として聞いてほしい。春の訪れは桜で感じることもあれば、鶯の鳴く声で感じることもある。朱音は夏の訪れを何で感じる?」

「私は蝉の声や真っ青な空に浮かぶ入道雲よ」

「良い答えだ。それじゃあ、秋の訪れは?」

「……赤く色づいた紅葉や鈴虫の声」

「そうだね。季節の訪れを感じさせるものは一つではない。毎年それは変わる」

「……山吹、まわりくどいわ」

「ああ、すまない。歳をとっているとどうも結論を後回しにしやすい。ええと、季節の話だったね。結論を言うと、季節の変わり目それぞれには季節を変える仕事をするやつがいるんだ」

「季節は自然に移ろうもの、って母さんが言っていたわ」

「ああ、人間の中ではそう伝わっているらしいね」

「違うの?」

「違うさ。季節は誰かが変えなければ変わらない。しかし、季節が変わらなければ生き物は生きていけない。特に植物はね。だから季節を変える仕事をするやつが必要なのさ。その仕事をするやつを決めるのは大地の神様だ。そして、今年の秋の訪れは紅葉が担当ってわけだ」

「ふうん。でも、紅葉の木ならたくさんあるじゃない。何故この木じゃだめなの?」

「力がなくては季節を変えることはできないからさ。生まれたてのひよっこじゃあ何もできない。大きくて成熟した木でなければいけない」

「ちから……」

「そう、季節を変えるっていうのはとても大変なことなんだ。生まれたての馬は荷車を引けないが、大人になった馬ならば荷車を引けるだろう」

「だから大きな紅葉の木を探していたのね」

「そういうことさ」

 朱音は山吹が言うことを頭の中でゆっくりと咀嚼した。

 季節を変えるお仕事、何て素敵なのだろう。この頃欝々とした日常を送っていた朱音にとって、山吹の話はとても魅力的に聞こえた。

「ねえ、私もその紅葉を探すの、手伝ってもいいかしら」

 朱音の申し出に、山吹はぱちくりと大きく一回瞬きをした。

「ああ、いいが。正直、見知らぬ土地の中一人で探すのは骨が折れる。手伝いがあるにこしたことはないんだ」

「決まりね」

 一日のほとんどを外で過ごしていた朱音は、この町の大体を把握していた。どこに野良猫が集まるのか、川の眺めはどこからが一番綺麗なのか、池田の丘へ行くのにどれが近道か。しかしそんな朱音でも、池田の丘の紅葉の木以上に大きな木は知らなかった。

 朱音はしばらく悩んだあと、隣に立つ山吹を見上げた。

「ねえ、その季節を変えるお仕事、本当に紅葉がするの?」

「間違いないよ。きちんとこの耳で大地から聞いたからね」

「でも、この木以上に大きな紅葉なんて、私知らないわ」

「そうかい……。どうしたものか……」

「周りの大人に聞いてみるのはどうかしら」

「それは名案だ。朱音、ここで一番長生きしている人を知っているかい?」

「笹田のお家のおばあちゃんが一番だと思うわ。今年で七十八歳なのよ」

 笹田のお婆さんはここら辺の地域では一番の長生きで有名だ。若いときに隣町から笹田に嫁いで家業の着物屋を支えた人で、今でも旦那さんと仲の良いおしどり夫婦である。朱音は小さいころからこのお婆さんの家に遊びにいっては着物を染めるのを手伝っていた。朱音の母親が亡くなったときも落ち込む朱音を励ましてくれたのもこのお婆さんで、朱音が一等なついている人でもあった。

「笹田のお婆ちゃんはね、お爺ちゃんととっても仲が良いのよ。天気が良い日はいつも縁側でお茶を飲んでいるから、今日もいるはず」

「連れて行ってくれるかい?」

「いいわ。こっちよ」

 山吹の手を引いて朱音は歩き出す。大人と手を繋ぐのは久しぶりだ。朱音は心の奥にろうそくの火が灯ったような、小さな暖かさを感じた。

 隣を歩く山吹を見上げて、ふと疑問に思い、朱音は尋ねた。

「山吹はどんなお仕事をしているの?」

「仕事?」

「山吹は大人でしょう?お仕事をしないで紅葉を探していてもいいの?大人は働いて子どもを養わなければいけないのよ、ってお母さんが言っていたわ」

 その言葉は、朱音が幼いころに母親に言った言葉であり、「お仕事って大変なのに、どうして大人は働くの」という朱音の疑問への返事であった。そしてその言葉を告げた後には「可愛い朱音のためだもの。だからお仕事が大変でも、お母さんもお父さんも頑張れちゃうのよ」と続いたのだった。

「うーん、そうだねえ……」

 顎に手を当てて悩む素振りを見せる山吹に朱音は胡乱な目をして言った。

「そんなに悩むことなの?一文無しではないんでしょう?」

「いや、どうやって説明しようかと思ってね」

「難しいお仕事なの?」

「簡単だよ。ただ、できる人が限られているんだ」

「私にはできる?」

「あと名前が三つあればできるかもしれないね」

「名前がたくさん必要なの?」

「ああ。あとは、ひとりでも平気ならできるかな」

「ひとり?私幽霊とか怖くないのよ」

「おや、心強いね」

「今馬鹿にしたでしょう」

「いいや、してないさ」

 山吹は朱音の頭に手を置いて、ゆっくりと撫でた。

 母さんが生きていたころ、父さんもこうやって撫でてくれたっけ。朱音は昔の記憶を思い出しながら目をつむった。そして、気づく。

「山吹、はぐらかすのが上手ね。私、お仕事の名前教えてもらっていないじゃない」

「はは……ばれてしまったか」

「もう」

 長い生垣が見え、その先には手掘りであるが綺麗な文字で笹田と掘られた木の表札が見える。朱音の言う「笹田のお婆ちゃん」の家に到着したのだ。

「お婆ちゃーん、朱音です」

 横引きの玄関戸をガラガラと開けて、朱音は家の奥に向かって叫んだ。すると、奥から「朱音ちゃん、縁側にいらっしゃいな」と女性の声がする。

 勝手知ったる様子でお邪魔します、と家に入っていく朱音に山吹はついていく。外から見ても大きい家だと思っていたが、やはり中も広い。暖かい日差しが家に入り込み、柱や部屋の欄干を照らしている。たくさんある部屋のうち一つに入ると縁側と庭が見え、ひとりの老婆が座椅子に腰かけているのが見えた。その老婆のもとへ、朱音は嬉しそうな顔をして近づいていく。

「お婆ちゃん、やっぱり縁側にいたわね」

「久しぶりね。朱音ちゃん、このごろここに来てくれなかったんだもの。お婆ちゃん、寂しかったわ。……あら、そちらは?」

 朱音に向けていた顔を山吹の方へ向けて首をかしげる老婆に山吹は被っていた笠をとってその場に正座した。

「こんにちは、山吹と申します」

 畳に手を付き頭を下げる山吹に、老婆はにこやかに笑って頭を下げた。

「あらあらご丁寧に。座ったままで御免なさいね。私、笹田君江と申します」

 近頃足の調子が悪くて、一回座ると立ち上がるのが大変で……。しわが浮かぶ手で優しく君江は足をさすった。

「私ももう歳かしら」

「何言っているの。お婆ちゃん、夏は元気に畑でトマトを採っていたじゃない。足が悪くなったのだって最近だし……。暑いのが続くから体調を崩しているだけよ」

「そうねえ……。本当、今年の夏は中々終わらなくて。昨年のこの時期は蚊帳も団扇も片づけていたのだけれど…」

「ああ、それは……」

 山吹が君江に何事か言いかけたとき、男の声が庭から聞こえてきた。君江の夫である笹田菊蔵の声だ。

「おーい朱音、ちょっとこっちを手伝ってくれんか」

 さくさく、という音を出しながら縁側に顔を出した菊蔵に朱音は元気よく返事を返す。

「いいよー。ごめんお婆ちゃん、ちょっとお爺ちゃん手伝ってくるね」

「ええ、いってらっしゃい」

 朱音がその場を離れると、君江が真面目な顔をして山吹の方に体を向けた。老婦人の背がしゃんと伸びて、それにつられて山吹も自分の背筋を正した。

「山吹さん、と仰ったわね」

「はい」

「朱音ちゃんのこと、どう思いなさる?」

「どう、とは」

「あの子、今年で七歳なのだけれど、それにしては大人びていない?」

「……ええ」

「最近、朱音ちゃん、このお家にも来なくなってね。今日久しぶりに顔を見たの」

 以前はもっと遊びに来てくれていたのよ、という君江に、山吹は頷いた。

「僕も、彼女から七歳と聞いたときは驚きました。話し方も大人びていますしね」

「そうでしょう。山吹さん、朱音ちゃんからご家庭のことは聞いたかしら?」

「……いえ」

「本当は私ではなく朱音ちゃんから聞くべきお話なのだけれど、山吹さんにはお話ししておきますね。朱音ちゃん、あなたにはなついているみたいだから」

「そんなことは……。出会ったのはつい昨日ですよ」

「時間なんて関係ないのよ。私と夫が出会ったときもそうだったわ。要は、心と心が通じ合うかどうかなのよ、本当に親しくなるっていうことは」

「……そう、思いますか」

「思うわ。……ここからは、わたくしが勝手に思っていることだから、聞き流していただいても構わないのだけれど……。聞いてくださる?」

「……はい」

「朱音ちゃんのご家族のお話はもう聞きなさった?」

「いえ、まだですが」

「そう。なら、わたくしがあなたにお話ししたことは朱音ちゃんには秘密にしておいてくださいな。朱音ちゃん、私がご家族のことを聞くとつらそうな顔をするから」

「約束します」

 山吹は背筋を伸ばした。ここから君江がする話は、本来出会ってまだ二日の山吹にする話ではないのであろう。山吹が向けた真摯な瞳に君江は微笑んだ。

「ありがとう。今さっき、朱音ちゃんが大人びて見えるかと私は尋ねましたね。それにあなたは頷きなさったわ」

「ええ」

「理由があるのよ」

君江は悲しげな笑みをその皺だらけの顔に浮かべた。

「朱音ちゃんのお母様、彼女が五歳のときに病気で亡くなってしまってね……。もともと彼女のお父様はお仕事がお忙しくて、お家には寝に帰るような生活を送っていらしたの。もちろん、その間朱音ちゃんはお母様と二人きり。お母様が亡くなってしまってから、朱音ちゃんはお父様のためにご飯を作ったりしていてね。あんなに小さい子が、よ。ご近所の助けもあって生活は何とかやっていけていたわ。そこまでならまだ良かったの。一年くらいして、お父様が朱音ちゃんの今のお母様と結納なさるまでは」

「……僕の意見ですが、いささか前の奥様が亡くなってから新しい奥様と結納される期間が短すぎやしませんか」

「わたくしもそう思ったわ。お母様が亡くなってから一年たっていたけれど、朱音ちゃんは空元気で。傷を癒すにはもう少し必要だと思っていたから」

 でもね、と続けて、君江は視線を庭に向けた。

「あなたは何を考えているの、って朱音ちゃんのお父様に問いただしたら、あの方、何て仰ったと思う?」

「……朱音のため、ですか」

「……ふふ、やっぱり男の方は考え方が似るのかしら。あの方、朱音にこれ以上寂しい思いをさせるのは嫌だ。朱音にはまだ母親が必要だ、って泣きながら仰ってね」

 叱り飛ばすなんてできなかったわ。私だって親ですから、気持ちは痛いほどわかるもの。時折痛むのであろう足をさすりながら、君江は言った。

「朱音ちゃん、お父様とあまりお話したり遊んだりすることがなかったから、お互いに接し方がわからないの。朱音ちゃんも、お父様も。そのまま新しいお母様を迎えて、朱音ちゃんには弟ができて」

「それは……」

 浜武器は眉間に皺をよせ、ううん、と唸った。

「朱音ちゃんはこう思ったそうよ。お父さんはお母さんを忘れてしまったんだ、って」

「彼女がやけに大人びて見えるのは、彼女が唯一の肉親に頼れなくて、ひとりで悩みも何もかもを抱え込んでしまったから、ですか」

「少なくともわたくしはそう思っているわ」

「……彼女は、家に居づらいのではないですか」

「ええ。近頃は朝に家を出て辺りで時間をつぶして、夕方に家に帰ることを繰り返しているみたいだから。わたくしに心配をかけないようにでしょうね。ここにもあまり来なくなってしまって」

「……君江さんは、こんなことを話して僕にどうしろと言うのですか」

 朱音と会って二日の山吹には荷が重い話だ。困惑する山吹の両手を君江は自分の両手で包みこんだ。暖かなぬくもりが山吹の手に伝わってくる。

「あなた、ずっと前にこの町にいらしたでしょう?ええと、確か夏の暑さが長引いた年だったと思うけれど」

 今までの話と全く関係のない君江の言葉に山吹は驚く。

「ええ、確かに。僕は君江さんとお会いしたことがありますか?」

 その言葉に君江は首を横に振る。

「いいえ、ずっと昔、私がまだ娘のときにお見掛けしただけ。あなた、今と全く変わりないのだもの。さっきお会いしたときは驚いたのよ」

「……」

 口をつぐむしかない山吹に君江は微笑んで言った。

「あなた、わたくしより大分長生きなようだし、朱音ちゃんがあそこまでなついているなら、彼女の家庭のこと、どうにかなさってくれるかしらと期待しているの。私ももう七十八だから、いつぽっくりいくかわからないでしょう?」

「僕のこと、聞かないのですね」

「あら、聞かれたかったかしら?」

 まるでいたずらが成功したような顔をする君江に、山吹は顔を上に向けて手で覆った。

「ああ、これだから。女性はいつの時代も聡い」

「お褒めにあずかって光栄よ」

「……そして、強かだ。君江さん、朱音のことは僕に任せてください。これでもあなたより年上だ。できるかぎり、どうにかしてみせようじゃあないか」

「お願いしますね、山吹さん」

「山吹、お話終わったー?」

 庭から朱音の声が聞こえる。どうやら、お爺ちゃんのお手伝いとやらが終わったらしい。

「ああ、もともとの目的を忘れていました。君江さん、この地域で一番大きな紅葉を知っていますか?」

「紅葉?……ここらでは池田の丘のが一番だと思うわ」

「いえ、池田の丘ではない紅葉です」

「池田以外……、昔一番大きかった紅葉なら知っているけれど、あそこの紅葉は三年前に切ってしまって今は小さいのよね……」

 君江の言葉に、山吹は目を見開いた。もやもやとしていた頭が急にすっきりとしてきたのがわかる。もしや、という声が口から洩れた。

「ねえ、君江さん、それはどこの紅葉ですか」

「朱音ちゃんのお家の裏にある紅葉よ」

 山吹の中で何かが繋がった。

「そうですか……。ありがとうございます。君江さん、朱音ちゃんのこと、僕は先ほどできるかぎりと言いましたね」

「ええ」

「撤回しましょう。僕に任せてください。絶対にどうにかしてみせますよ」

「頼もしいわね」

「君江さん、改めてお礼を言わせてください。ありがとうございます。あなたのおかげでここにも秋が来そうです」

 脈絡のない会話。それでも君江は微笑んで言った。

「あらあら、ようやく涼しくなるのね」

「お婆ちゃん、山吹、見て見て。大きい大根でしょう」

 庭から大根を持った朱音がやってくる。手と顔を泥だらけにしながらにこにこと笑っている。その表情は年相応で、あれが彼女の本来の顔なのだろうと山吹は思った。

「本当に大きいね。それ、どうするんだい?」

「お爺ちゃんが持ち帰っていいって。山吹、お婆ちゃんに聞きたいこと聞けた?」

「ああ」

「じゃあ、探していた紅葉が見つかったのね。どこにあったの?」

 うきうきとして尋ねてくる朱音を、山吹は優しげな顔で見つめた。

「その前に、朱音。大根をお家に置きに行こう」

 その言葉を聞いて、朱音の顔がこわばる。そして、恐る恐る山吹を見上げた。

「……家」

「うん、朱音の家」

「今じゃなくちゃ、だめ……?」

「ああ。なるべく早い方がいい。君江さんのためにもね」

 朱音はしばらくうつむいていたが、君江と山吹の顔を交互に見て、小さな声で言った。

「わかった」

「安心をし。僕も一緒に行くのだから」

 頭を撫でてくる山吹に、朱音は君江が自分の家庭の事情を話したと悟ったのだろう。少し安堵した顔をして、ゆっくりと頷いた。

 朱音と山吹を見送るため、君江は痛む足を無視して玄関口まで見送りに出た。朱音がいいよと断ったのだが、今日はいつもより足が動くから、動かせるうちに動かすのよといって君江が聞かなかったのだ。もう、と膨れっ面になる朱音に手を引かれながら、君江はにこにこと笑った。

「じゃあね、朱音ちゃん。またいつでも来なさいな」

「うん、そのつもりだよ。……このごろ来なくてごめんね、お婆ちゃん」

「気にしなくていいのよ……と言いたいところだけれど。お婆ちゃん、寂しいからまた来てね」

「……うん!」

 またね、と手を振り朱音は玄関を出る。それを微笑ましげに見つめる君江に、山吹はふと尋ねた。

「君江さん、大地の音は聞こえますか?」

 山吹の突然の質問に、君江はきょとんとした顔をした後に、にっこりと笑った。

「ええ、聞こえるわ」

 そうですか、と言い笠を被った山吹の口元がかすかに上がった。

 

 

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